感動 セロトニン 呼吸 共感

大きな気づきを得た瞬間や深く共感したとき、未知の世界に触れたときなど、魂がふるえるような感動をしたときに湧き上がってくるあつい想い、想いあふれて出る涙。

至福感に満たされ、爽快感が訪れる。

そんなことがあるたびに、生きていてよかったと思う。

何をすると幸せ、何があると幸せ、だと比較競争や奪い合いが起こりやすいので、どのようにあると幸せか、に着目する禅や瞑想。

近年では脳科学、ホルモンと関連付け、幸せホルモンを活性化して幸せになる方法なんてのが広まっている。感情を冷静に捉えたり、人の行動そして社会経済への影響から分析やシュミレーションに有効な脳科学は面白いけれど、せっかくの感動も「いまセロトニンが出でるな」「オキシトシン系だな」なんて思うと冷めてしまう。

幸せホルモンといえばセロトニン。

オキシトシンは、他者に共感し信頼を育むホルモン。

エンドルフィン、ドーパミンも幸せ系だけど依存性もあり。

etc.

ただしホルモンは物理的なもので、心、精神性の起源に関しては脳科学では説明できない。反射的な感情をコントロールしやすくすることはできても、感情とは、思考とは、どこから湧き上がるのだろう。

そのもとを観じなければ、真の幸せに達しないように思う。

釈尊は、ありとあらゆる苦行を自らに課して、様々な苦しみを体験し、いかなる状態でも人らしくあれるかに挑戦しました。しかし肉体の苦行からは、何も得られないと考え、菩提樹のもとで瞑想し、悟りをひらかれました。

悟るといっても何を悟ったんだろう。

様々な文献を読まずにただ感じるのは、あらゆる苦しみを体感し、あらゆる苦しみの本質を悟ったのではないかと思う。

なので釈尊の教えは苦しみをなくす法であって、幸せになる法とはちょっと違う。

苦しみを感じたくないから感情をブロックして無感動になっていくのと違い、苦しみに向かい許すこと、共感と慈悲、なお生きる覚悟。

いかなる状態でも平常心を失わないために、セロトニンは鍛えられていたと思う。その釈尊がおこなっていた呼吸法が、大安般守経というお経に残っていて丹田呼吸法の原型といわれている。

呼吸は、筋収縮によるもので、鼻が空気を吸い込んだり肺が収縮するわけではない。

腹式呼吸は息を吐きつくしたら腹圧をゆるめると、自然に鼻から空気が入ってくる。もちろん空気は腹まで入らないし、肺は筋肉がないので収縮しないため、横隔膜を上下する腹圧で呼吸する。

セロトニンは8割が腸管でつくられているようなので、腹式呼吸によって分泌が促進されることはあるのだろう。

実際は、呼吸だけで幸せになるわけでも、幸せになる法というのもなくて、深く観じ感動することの繰り返しではないか。

釈尊のように自ら苦しまなくとも、私たちは共感によって、類似体験をすることがある。これも脳科学的にいわれている。共感力の強い人は、たった一生で、たくさんの人の体験を共感によって類似体験し、多生を学ぶ。一日が千日にもなるほどの学びを得る。

そうしてだんだん、自らの内に流れている旋律というか波動みたいなものから、光、調和、慈愛、感謝、美、などが感じられるようになってくると、ストレス耐性も、幸福感も増していくのだろうな。

人の涙は、いのちの輝き。とくに慈愛からわきあがる涙は、宝珠のきらめき。

午前10時ころ、朝露が乾いている時間でも、スギナは体内の余分な水分を放出する。スギナの群生地では、宝石をちりばめたような輝きをみることができる。

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http://mandala-life.net 調和の暮らし 雲のように、時と場と、映す人によって変幻自在。

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